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『言葉をおぼえるしくみ』-母語から外国語-

誕生から児童期までの「成長」

『言葉をおぼえるしくみ』-母語から外国語-
(今井むつみ/針生悦子 ちくま学芸文庫 2014)

 

五歳の孫と暮らしていると、時々今まで彼が使ったことのない妙に大人びた言葉を適切な場面で使ったり、残念ながら少しずれた用い方をしたりします。思わず笑いを誘われながら、幼児はどうやって言葉を自分の扱える道具にしていくのか、不思議に思います。

 

一つの言語を“意識的に”習得することの難しさは、どなたも中高生時代の英語学習で嫌と言うほど身につまされていると思います。ところがまだ“学んでいる”という意識の無い幼児の時代から私たちは母語を進んで学習しています。

 

高校3年生の“知っている”単語数は、凡その推定で少なくとも6万語くらいと考えられています。

 

「18歳の誕生日までにこれだけの数の単語を身に着けたと考えるなら、どうだろう。人間は生まれて最初の1年間はほとんど話せないので、この6万語は実質17年間で獲得したということになる。すると、これは1日平均9.7語のペースで新しい単語を覚えていった計算になる。これがどれほどの偉業であるかは、今まで知らなかった言語の単語を1日に9-10語覚えていくことの大変さを想像していただければ、お分かりいただけると思う」(本書15p)

 

『言葉をおぼえるしくみ』はこの「偉業」が誰にでもなぜ成し遂げられるかを、認知科学や発達心理学の専門家二人が、幼児を対象にした臨床実験=観察を繰り返し、解明していくものです。

 

優しい言葉遣いで書かれていますが、内容は科学論文であり、名詞・動詞・形容詞・助数詞・擬態語と使い分けされる言葉の種類ごとに、厳密に追跡し、その時子どもたちの脳内で起きている「類推」や「検討」を推理して、言語使用の発達過程を構造としてとらえていきます。

 

当然読み手にも著者と同じ、粘り強く考える努力が要求されますが、ちゃんと筋を追っていくと、なるほどそうなのか、と必ず腑に落ちる結論へ至ると思います。

ことばの学習をめぐる二つのパラドクス

この本が研究書でありながら、素人でも読み進めることができるのは、著者がこの本が解き明かそうとしているナゾを「ことばの学習をめぐる二つのパラドクス」として冒頭に提示し、そのナゾの解明に絶えず読者を巻き込んでいくからです。その二つのパラドクスとは

 

第1のパラドクス:理論的には初めて出会うことばの意味を類推することは非常に難しいはずなのに、子どもは初めて遭遇したことばの意味をあれこれ迷わず推論できるのはなぜか

 

第2のパラドクス:ことばは単語一つでは意味が確定せず、他のことばとのつながり(文章ですね)のなかで初めて意味ができる(使える)はずなのに、子どもは他のことばを知らないうちに今であった単語を何とか使えるようになるのはなぜか

 

第1のパラドクスは、例えばミルクの入ったマグカップを指して、幼児に「カップ」と教えた場合、カップとは

  • <陶器でできた>とか<白い>とか属性のことかもしれない
  • 中に入っている<ミルク>=中身のことかもしれない
  • カップの<取っ手>のような部分のことかもしれない
  • ミルクの入ったカップ全体のことかもしれない
  • この差し出されたものだけの固有名詞かもしれない

など様々な類推可能が無限にある中で、なぜ“容器としてのカップ”という切り出しへ類推が向かうのか、というナゾです。

 

第2のパラドクスは、、例えば「腹が減った」「腹が立った」「腹に落ちた」という三つの文章では腹という言葉の意味は違いますね。

 

ここで「腹」ということばの意味を確定するのは前後のことばのつながりですが、ここでは減った、立った、落ちた、という言葉の意味がわかっても、それぞれの文章の意味はわかりません。ましてや「腹に据えかねる」では据えかねるという言葉の意味さえもわからないでしょう。にもかかわらず子どもはなぜ「腹」ということばをいろいろに使って、文章を考え、すぐに使えるようになるのか、というナゾです。

 

言葉をおぼえるしくみ

言語に限らず日常生活で私たちが無意識にできていることは、すべて学習の成果です。しかしながら私たちはなぜそれが無意識にできるようになったか、説明することができないでしょう。

 

『言葉をおぼえるしくみ』はそのような無意識にできていることの中で、最も複雑な(だから人間にしかできない)ことばの学習過程を追跡することで、コミュニケーション力、学ぶ力、想像する力という私たちの人間力の源泉を感じさせてくれます。

 

そして子育てという営みが、力を着けさせることではなく、子どもの中から「人間」が立ち上がってくるのを、邪魔しない見守りである、ことに気づかせてくれます。