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『あなたの人生の科学(上下)』

女性のライフステージと健康課題

『あなたの人生の科学(上下)』
(デイヴィッド・ブルックス 2011 ハヤカワ文庫)

 

この本は、人生の様々なステージで私たちが遭遇する出来事とそれへの意識的・感情的・無意識的な対応を、小説仕立てのストーリーの中で発生させ、それらを同時に脳科学・心理学・社会学・人類学等科学の観点から解き明かしていく科学読み物です。

 

主人公の男女ハロルドとエリカは出自が大きく違い、性格も能力を発揮する分野もほとんど正反対です。ハロルドはアメリカの典型的な中流の上の家庭で愛情豊かにに育てられた青年。一方エリカは様々な問題を抱えた一人親(母親)家庭で貧困と無理解の中で育ち、そこから自力で脱出するために、小さいころから競争に勝ち、判断し決断して行動することを余儀なくされてきました。

 

この二人がどのように誕生し、どのように成長し、どのように出会って結婚に至るのかが前半部分。その後それぞれが仕事のキャリアをどのように切り拓き、結婚生活の危機を乗り越え、幸せな後半生を送って死別に至るかが後半です。

作者がこの本を書いた最大の目的とは

作者ははしがきの中で「私がこの本を書いた最大の目的は、読者に無意識の役割を知ってもらうことである。人間が幸福になるうえで、無意識がいかに重要な役割を果たすか、それを知ってもらいたいのだ。」と書いています。

 

認知心理学と脳科学の飛躍的研究進展により「私たちの日々の行動は、無意識の世界で生じる愛情や嫌悪などの感情によってかなりの部分が決められてしまう」ことがわかってきました。

 

作者はその前提に立ち、無意識の感情の扱い方によって人の幸福度が大きく変化するのだから、無意識に「意識的」に働きかけることで、無意識に発生する様々な感情とその反応としての行動を、ある程度コントロールしていくことが必要であると考えています。

 

そしてこの本のストーリーを通じて、そのような無意識への「意識による働きかけ」がどのようになされうるのかを語っています。

 

このような「人生」という大きな対象について、懇々と語り聞かせる書き物というと、18世紀末のジャン・ジャック・ルソーの『エミール』あるいは1940年代我が国の吉野源三郎によって書かれた『きみたちはどう生きるか』を私は思い出します。
 

前者はフランス革命前夜のフランスで、その思想的先駆者であったルソーが「自由で民主的な人格」とはいかに形成されるかを小説の形で語った本でした。<後者は戦中戦後の日本の中で、政治的な圧力や文化的な圧力に抗して「人間個人の尊厳」をいかに守り通せるかを、これまた物語を通して伝えようとした本でした。  

これらは危機と変革の時代にこそ「一人の人間」という原点から考えることが必要である、というヒューマニズムに貫かれています。

『あなたの人生の科学』が教えてくれること

『あなたの人生の科学』は出版されると全米でベストセラーになり、売上ランキング1位にもなりました。このような大部(上下合わせて800ページ!)の書物が、しかも人が生きるとはどういうことかをくどくどと説教する本が、多くの読者を生んだということは、世界が危機と変革の時代に入って久しいことを意味しているのでしょう。

 

そしてデイヴィッド・ブルックスもまた、人間の領域を無意識まで拡げたうえで、その扱い方を伝えることで、ヒューマニズムの伝統に則って、この危機と変革の時代を幸福に生きていくすべを教えてくれているようです。