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各時代の私たちが同居しているのが老年

「老い」は邪魔で醜いものなのか?

ある時期まで、日本人は「老い」は成熟であり、人間的により高い次元に到達することだ、という常識がありました。「若い」ということは青二才、若造、ひよっこ、などというように未熟であり半人前だという評価でした。

 

1980年代後半くらいからでしょうか、「若さ」がそれだけで勝ちがあり、翻って「老い」は邪魔で醜いものと思われるようになりました。そして人はこぞって若さを保とうとしはじめます。

 

日々の通勤電車の社内では、「痩せて若返る」ことをアピールするエステティックサロンの広告は嫌でも目に飛び込んできます。

 

私はその車内広告の「私の実年齢を当てられる人はいません」というキャッチコピーの横で、30歳代くらいの装いをして満面の笑みを湛えている女性(51歳)を見ると、失礼だけれども見てはいけないものを見た不気味さ、もの悲しさでいたたまれない思いがします。

老年とは各時代の私が同居している状態

孫ができ、人生の第4コーナーに入った私にとって、老いは今ここにいる自分の現実です。確かに、体力や気力の衰え、老眼といった実際的な不具合はリアルにあります。しかし、実際の「老い」はかつてまだ若いころの自分が想像していたものとは大きく違いました。

 

いちばん違ったのは「歳をとることは”老人という人格”を持つことではない」ということでした。

 

若造の私は、子供というのは”ケーキ屋ケンちゃん”のような存在で、青年というのは”たのきんトリオ”のように武田鉄矢先生を困らせなければならず、中年というのは”金妻”のように不倫したり、人を裏切ったりで自分を再生させ、老年になったら水戸黄門様のよういに、年寄ことばを使って人をねむに巻く存在になること・・・、つまり年代によって人格の入れ替わりが起きるものと勝手に思っていたのですね。

 

ところがどっこい、この各年代の人格は次の人格に入れ替わることなく、すべて今の自分の中に生き延びているのです。様々な時代の私が、今の私の中で混然と同居している「各時代の私たち」がいまの私になったのが老年だったのです。

 

だから、過去のある時代の自分の置かれた環境を呼び起こすヒントが入力されると、瞬時にその次代の感情が呼び起こされてしまうのです。

 

かくのごとく、たくさんの「私たち」である老人は、一筋縄では理解できない存在です。当然、その生き方や振る舞いも、若い世代に比べてはるかに多彩です。

「老いるということ」(黒井千次)

1932年生まれの手練れ小説家、黒井千次はそのあたりの機微を熟知しており、彼の老年に関するエッセイは人間は老いるほど、そして老いる現実を受け入れるほど「豊かに」なることを無駄のない筆使いでわかりやすく表現してくれます。

 

黒井千次には「老いのかたち」「老いの味わい」「老いるということ」という老いをめぐる三つのエッセイ集がありますが、「老い」を様々な角度から描いた作品を解説しながら、老いの豊かさを浮き彫りにしていく「老いるということ」が私のいちばんのオススメ作です。

 

このエッセイ集は、13の作品を取り上げています。どれも「老いは豊かである」としみじむ実感できる珠玉の作品と解説なのですが、私のお気に入りは、舞台劇「ドライビング・ミス・デイジー」に沿って、若さを失うことによって得られるかけなえのないもの、を教えてくれる章。壮絶な老老介護で認知症の妻を看取る耕地人の晩年の作品群を通して、愛することの美しさに触れる章。詩を前にしてじたばたする自分を滑稽に描く伊藤信吉の詩から「生」の凄みを謡いあげる章です。

 

黒井の教えを受けた後では、豊かさとは、いつの時代でも、どの年代でも、「今」「ここ」「自分」をありのままに受け入れて、その「今」「ここ」「自分」を大切に慈しむことである、という当たり前を、当たり前として素直に受け入れることができるようになりました。