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食卓は家族関係のバロメーター

核家族の多い現代

昭和35年生まれの私にとって、「家族」はイコール父母兄弟のいわゆる「核家族」です。しかし、この家族形態が日本で当たり前になったのは第二次大戦後のことではないでしょうか。それも東京などの大都市部のことでしかないのです。

 

東京郊外で少年時代を過ごした私の小学校時代、夏休みになると同級生の多数は家族で日本全国に「里帰り」していました。

 

東京を初め大都市は勤め人が多数派で、その多くは様々な地方から単身上京し、そこで世帯を持ち、こどもを作って家族を営んでいました。ですから必然的に家族=核家族であったのです。

 

西欧や北米のキリスト教世界では、成人したら独立する(家族を離れる)というのが当たり前だったので、もっと早い時期から家族は各家族として営まれてきたようです。

 

核家族のあり方を描いた「スイスのロビンソン」

そんな西欧型核家族のあり方を描いた文学作品に「スイスのロビンソン」(ウィース)という児童文学があります。

 

「スイスのロビンソン」という物語は、有名な18世紀の「ロビンソン・クルーソー」(D・デフォー)に触発され、南海の孤島に家族6人で漂着した一家が、助け合いながらサバイバル生活を生き抜き、そこに自分たちの楽園「新スイス国」を創造するというストーリーです。

 

物語の冒頭、まだ漂着して間もないとき、全員が食べ物や役に立つものを確保するため、それぞれ違う場所を探索しに行きます。

 

そして家族の中でなかなか目先の利く次男が、大きな二枚貝を見つけ、それを一つ持ち帰って、皿がすべて流されてしまった家族がスープを食べるのに四苦八苦している中で、自分だけがその貝を皿のように使って効率よく食べようとするのを、父親が見咎めるのです。

 

父親、「お前は、自分のことだけは、中々よく気をつけてやったがね、ほかの人にも、そういうお皿を持ってきてくれなければダメじゃないか。」

次男、「でも。あそこに行けば、こんなのまだいくらだってありますよ。」

父親、「それそれそれだよ、お父さんが文句をいいたいのは。お前はいつでも自分の事しか考えない。自分一人だけよければいいなんてことは、罰しなければならん・・・」

 

こうして次男はその皿を取り上げられてしまいます。

全員が力を合わせるのが家族

おそらく現代の日本の子どもたちがこのエピソードを読んだら、この次男は”不当に罰せられている”と憤慨するかもしれません。しかし、無人島で生き抜くために”力を合わせるのは、みんなが生き残るために必要なことなのです。

 

皆が自力で生きられるのなら問題はありませんが、この家族には独力では生きられない小さな子供がいます。家族というい集団が生き延びるためにもっとも弱い小さなこの存在を支えることは不可欠です。父親の言葉は、この家族をよりよい方向へ導くためのふるまいでした。

 

しかし、物の豊かな現代の日本の子どもたちにとって大事なのは個人の自由であり、自分が我慢してまで皆と力を合わせることなど創造しにくいかもしれません。

 

食事を摂ることができない子どもたち

日本の社会は豊かになりました。

 

全員がそれぞれ好きなものを食べ、自分の部屋を持ち、自分のスマホを持つことが当たり前になっています。こうして家族のために自分の欲求を削ることなど問題外になっている気がするのです。

 

東京都大田区にある地区で数年前に始まった「子ども食堂」という取り組みがあります。その動きは瞬く間に広がり、全国的なネットワークを結びながら増え続けています。

 

食材を融通しあう「フードバンク」という組織もあちこちに設立されています。豊かに見える日本の中で、三食きちんと食べられない児童数は、今や10人に一人とも、6人に一人ともいわれています。

食卓に反映される家族関係

私は都内の「子ども食堂」のお手伝いをしたり、自分の住む地域で「子ども食堂」を始めたりして、ようやくわかってきたことがありました。

 

世帯収入がわずかで子どもにきちんと食事を摂らせるころができない家族は一定数いますが、それ以上に家族が機能していなくて、子どもが親やその他の家族と一緒に食事ができな状況の子どもが存在するということです。

 

そこには、子どもにしっかりした食事を食べさせることまで気が回らない親と、誰かと一緒に食事を摂ることがうまくできない子どもがいます。

 

子ども食堂では、そういう子どもに対して、最初は「自分と家族の分の料理」を持ち帰らせることからスタートします。そして、機会をとらえていろいろな人たちと一緒に食べる体験を食堂でしれもらい、さらに家族と一緒に食堂にやってきて同じものを”わいわいお話しながら”ゆっくり食べる、という体験を味わってもらいます。

 

私事ですが、「食事」とは「家族」の現在の在り様をかなり正確に写す鏡のような気がしています。私の貧しい体験からですが、「家族」がうまくいっていると、何を食べてもおいしく感じられます。私にとって食卓の状況は家族関係の”今”をはかるバロメーターとなっています。